災害医療

千里救命救急センターと災害医療

災害医療のエキスパート

千里救命救急センター開設以来、病院前救急診療の重要性に注目し、多くのエネルギーを注いで参りました。なかでも、集団災害医学の分野では、太田宗夫元所長、鵜飼卓元副所長、藤井千穂前所長、高橋章子前総看護師長をはじめとした、傑出した諸先輩に恵まれ、現在も林靖之センター長を筆頭に、多くの災害医療のエキスパートが育っています。

災害医療活動

1993年ドクターカー運用以後は、災害発災直後から、災害現場に自らの資機材を携行した医療チームを派遣し、災害医療のマネジメントとサポートを実践しております。千里救命救急センター近隣の災害では、1995年阪神・淡路大震災、2001年池田小学校児童殺傷事件、2005年JR福知山線脱線事故などのほか、多数傷病者が発生した交通事故などに出動してまいりました。

また、遠隔地の災害に対しては、北海道南西沖地震、新潟県中越地震などでは、災害医療の研究を行って参りました。さらには、2005年3月より日本DMAT(Disaster Medical Assistance Team)隊員を登録し、併せて大阪DMAT隊員登録も開始しています。これにより2011年の東日本大震災の際には、すぐに派遣のための準備を開始し、翌日早朝には花巻空港に空路にて大阪DMATとして現地入りして被災地活動に貢献することができました。

HuMA(NGO)による被災地医療支援の際にも、数名の医師を現地に派遣するとともに、福島原発事故に対する福島県庁内オフサイトセンターへは医療アドバイザーとして医師2名を派遣しました。

学会活動

先駆的な災害医療活動のみならず、学究的な分野でも、1996年には日本集団災害医療研究会を結成し、1999年には日本集団災害医学会の創設にかかわり、事務局を永らく担当して参りました。また、1999年には第11回世界救急災害医学会を主催いたしました。さらに2011年2月には甲斐達朗顧問が会長として、第16回日本集団災害医学会学術集会を開催しました。そして現在も、災害に関わる学会活動や調査研究に活発に参加しております。

教育活動

教育活動千里メディカルラリー・
集団災害ステーションの様子
教育の分野においても、災害時医療の体系的アプローチの一つである、MIMMS(Major Incident Medical Management and Support)や日本DMAT、さらには消防職員や警察職人に災害対応を学んでもらうことを目的に作られたMCLS(Mass Casualty Life Support)へも、インストラクターを派遣しております。医師会、消防、警察、自衛隊、自治体など現場活動機関とは、顔の見える付き合いを目的とした勉強会、講義、会議、訓練を瀕回に行っております。その一つとして大阪国際空港航空機事故災害訓練では、主たる医療チームとして関わってまいりました。
2002年からは、現場の医療活動の重要性を再認識することも目的として、千里メディカルラリーを主催し、集団災害のステージを設けて、全国から集まる医療関係者、救急隊員との交流を通じて、切磋琢磨しています。

災害における医療支援

災害における医療支援

災害時医療の体系的なアプローチ MIMMS (Major Incident Medical Management and Support)

大事故災害現場における医療マネジメントや多数傷病者の受け入れにおける医療サポートに関する、あらゆるハザード(危険性)を想定した体系的なアプローチMIMMS (Major Incident Medical Management and Support)
※イギリスで開発され、世界各地に普及している標準化された大事故災害時の医療支援システム

<MIMMS上級コース>

保健医療関係者を対象とした 3日間の教育訓練プログラム

  • 机上訓練 、無線通信訓練
  • トリアージ訓練
  • 実地訓練 済生会千里病院の受講者数 現在約10名
大事故災害への7つの基本原則 -大事故災害医療マネジメントおよびサポートにおける優先事項-

大事故災害への7つの基本原則

日本DMAT(Disaster Medical Assistance Team)

災害急性期に活動できる機動性のある、トレーニングを受けた、災害派遣医療チーム。
基本的な概念や教授法はMIMMSコースに沿う。

DMATの任務
近隣災害 従来より千里救命救急センタードクターカーにより活動してきた医療チーム
の現場派遣と、災害現場でのメディカルコントロール。
遠隔地災害 広域搬送基地(ステージングケアユニット)での医療支援と広域航空機搬送における搭乗医療チーム。

2005年3月より研修コース開催
済生会千里病院は6名のDMAT隊員が登録し隊員養成研修会に講師として派遣

日本DMAT(Disaster Medical Assistance Team)

2010年11月 JAPAN APEC開催期間中テロ対応班として、DMAT派遣
2011年03月 東日本大震災 花巻SCU(広域搬送拠点)及び県立釜石病院派遣
2016年04月 熊本地震 熊本赤十字病院派遣
2018年06月 大阪北部地震 大阪大学医学部附属病院派遣
2018年09月 台風21号被害 関西国際空港派遣
2018年09月 北海道胆振東部地震 ロジスティクスチーム派遣
東日本大震災での花巻空港SCU活動
東日本大震災での花巻空港SCU活動

 

DMATカー

DMATカー
DMATチームは災害現場で活動を行うため、チームで移動手段を有していることが望ましく、また迅速な対応を必要とします。このDMATカーは、赤色灯を搭載した緊急車両登録がされており、緊急時の緊急走行が可能で、大規模災害時には「災害時優先道路」等の走行が可能になります。
また、活動に必要な多くの資器材が搭載可能であり、「車載用衛星通信回線」を搭載しているため、通信が途絶するような災害時でも音声通話、インターネット回線を確保することができます。そして、医療チームの現場指揮所として活用できるよう、「TVモニター」「PCモニター」「サイドタープ」を搭載した多機能な車両です。
DMATカー2
DMATカー3

国内災害派遣

1995年01月 阪神淡路大震災 ドクターカー派遣
2001年06月 池田市 大阪教育大学附属池田小学校児童殺傷事件 ドクターカー派遣
2005年04月 尼崎市 JR福知山線脱線事故 ドクターカー派遣
2007年02月 吹田市 スキーバス事故 ドクターカー派遣
2007年05月 吹田市 エキスポランドジェットコースター事故 ドクターカー派遣
2011年04月 東日本大震災 HuMAとして医師9人派遣
2013年08月 福知山市 福知山花火大会爆発事故 ドクターカー派遣
2018年06月 大阪北部地震 国立循環器病センター 本部支援派遣
2018年05月 西日本豪雨災害 災害医療コーディネートサポートチーム 看護師2人派遣

DMAT派遣経験

DMAT派遣経験1
DMAT派遣経験2
DMAT派遣経験3

2011年3月11日、東日本大震災が発生し、日本DMAT隊員として、岩手県に派遣されました。
DMATとは、災害急性期に災害現場に駆けつける、専門的な訓練を受けた医療チームです。東日本大震災におけるDMATの派遣目的は、被災地内の『病院支援』と『広域医療搬送』等です。「広域医療搬送」とは、被災地での医療の継続が困難な場合、医療資源の充実した被災地外へ、重症患者を航空機を使って搬送し集中治療が受けられるようにするためのものです。

3月12日早朝、伊丹空港から自衛隊機にていわて花巻空港に出発しました。花巻空港にはSCU(傷病者を受け入れる臨時のICUのような場所)が設置され、傷病者の受け入れ・観察と安定化治療・搬送が行われました。また岩手県沿岸部の病院へ支援のためDMAT隊員を送り出していました。重症傷病者は少なかったのですが、病院自体が被災し、病院としての機能を失っているところが多くあり、患者避難が必要な状況で、医療ニーズは多いと感じました。 千里病院は、K(県立釜石)病院に派遣され病院支援を行ないました。K病院は、津波の被害はありませんでしたが、地震により病院建物の倒壊の危険がありました。入院患者さんの避難が必要でしたが、更に救急患者さんの搬入もあり、病院廊下にも患者さんがあふれている状態でした。私たちは少しでも病院スタッフの助けになりたいと、搬出(転院)依頼患者さんの再評価や救急外来のお手伝いをさせていただきました。病院スタッフは、自らも被災者でしたが、繰り返す余震のなか、患者さんのために気丈に頑張っておられました。

私は2005年に日本DMAT隊員に登録され、隊員養成研修のインストラクターや、様々な訓練に参加してきましたが、災害派遣は今回が初めてでした。救急という場で経験を積み、災害時にも活動できるように頑張ってきましたので、今回DMAT隊員として参加させていただけたことは、貴重な経験になりました。

看護師 安本 友子

東日本大震災への派遣について

2011年3月11日に発生した東日本大震災については、当院からも多数の人的支援が行われた。
毎日の悲惨な報道に、私にも何かできることがあればと願うばかりであったが、その折に甲斐センター長からHuMA(特定非営利活動法人災害人道医療支援会)を通じて災害医療支援への協力を募る院内メールが回ってきたので即座に志願した。 結果、HuMA第3次隊の一員として4/3-13までの期間、宮城県南三陸町に派遣された。
被災地での第3次隊の活動内容は主に、災害本部機能の支援、イスラエル医療団の支援、避難所や各診療拠点への巡回診療の3つだった。 これまでの恵まれた環境での日常診療から一転して世界が変わり、毎日が緊張の連続だったが、同時に平時では得難い経験もした。天災に対して医師個人の無力さを思い知らされる日々でもあった。短い期間ではあったが、濃密な時間を過ごしたせいか南三陸町やそこに住む人々に愛着を持ったし、活動を第4次隊に引き継ぎ現地を去るときには後ろ髪引かれる思いだった。

・・・あれからまもなく1年が経ちます。大阪に戻ったあとはまたいつもの日常診療に追われ、ときどき報道等でその後を伝え聞くのみです。被災地の復興に関するニュースを聞くと嬉しい気持ちになります。被災した皆様の御健康と、かけがえのない人たちを喪失した悲しみがいつか和らいで1日でも早く平穏な日常を回復されることを心よりお祈りいたします。なお、このような機会を与えてくださったセンター長をはじめ、長期間の不在を快く許してくださった救命センターの皆様に心より感謝いたします。

救命救急センター 後期レジデント/2012年退職
天野 浩司
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